「ふと」の豊かさ ~ Art of Insensibility


“Special Way” by Kool & The Gang

1日が50時間あればいいと思ったことがある。

時間と文字に追われ、ゆっくりと食事を摂る時間もない時には、サンドウィッチはよくできた食べものだと思いながら右手でキー、左手にパストラミのサンドウィッチを持って仕事、ランチ、仕事、ランチを交互にこなしていく。チャップリンの「黄金狂時代」のようだと友人たちと笑ったことがあった。

もちろん週末はやってくるけれど、その週末さえも必死に消化しようとしていた。

が、北海道に降り立ち、仕事から離れてしばらく経つと、これまでとは違う自分が生まれたことに気付く。

ふとした光景やその日の天気に心が大きく動くのだ。無意識に空を見上げ、両手をいっぱいに広げて新鮮な空気を吸い込み、道端の花をしゃがみ込んで眺める時間がとても多くなった。本当に、無意識に。

1

重たい雲の広がる日のポピーは、色鮮やかなのにどこかアンニュイなルドンの描いた絵に似ていると思った。そういえばルドンはちょっと目を背けたくなるような不気味な(そして滑稽な雰囲気も持ち合わせた)絵も残したが、後年描いたさまざまな花の絵を私はとても気に入っている。繊細で華やかで、儚くて。

「ふと」は心の余裕が生む小さな、そして豊かさに満ちた衝動だ。

2

6月は全道で道花のハマナスをはじめルピナスやマーガレットなど多くの花が咲き乱れる。

私はニューヨークでルピナスを見たことはなかったし、マーガレットにしても街角のデリへ行くと店先に1ダース10ドルのブーケで売っており、それを疑いもせずかわいいと思っていたのだが、北海道ではどちらも野原や田んぼのあぜ道など至るところに咲いている。

花咲く野原は天使の楽園と言いたくなるほどで、同じ花の美しさでも大地から太陽へ向かって伸びているものと、命を切り取られたものとでは違うものだとあらためて思い知らされる。

そして素晴らしいことに、花々を摘んでいる人を見たことがない。

もちろん、切り花だって嫌いではない。刈り取られたラベンダーなどはビビッドな紫色と心安らぐ爽やかな香りを、つい手元に置きたくなってしまうもの。

21

ある朝、ふと日差しのとても明るいのに気付いてバルコニーに出て空を見上げると、haloが二重の大きな虹の輪となって太陽を囲んでいた。こんな神さまの遊びを見た日は何かいいことを期待するが、たとえば何もない日で終わっても、小さな良い思い出は残る。それだけでいい。

22

富良野のラベンダー・イーストには地下水をくみ上げるかわいいフォーセットがある。近付いて手を差し出すと真夏でもあまりの冷たさに驚き、またひとつ地球という星のシステムを実感して嬉しくなる。これもまた地方暮らしの魅力、ここで暮らせる私は幸運に恵まれた。

12

夏の美瑛町にやってくると、ゴッホの描いたアルルの風景を思い出す。週末にふらりとここを訪れて何の気なしに小道など撮ってみるとほら、油彩にしか見えなくなったりするから不思議だ。

19

心にゆとりがある時は、空模様によく気がつくものだ。リビングルームが急に陰り始め、何故だか少し不安になって腰に手を当て窓の外を眺めると、大雪山系が普段とは違う顔を見せていた。

漆黒の雲が山の頭上に垂れ込め、輝くような白い雲が降らすのは雨か、雪か。こんな日は、天が何か重要なことを私たちに伝えているのではないかと思えてならない。

3

休みの日のドライブから帰る途中、田んぼに夕陽のリフレクションがとてもきれいで車を止めた。特別な風景でなくたって、ふと目に留まったものがいつまでも心の中の「美しいものだけを置く部屋」に飾られることもある。きっと、この日の夕陽とどこからともなく聞こえてきたカエルのかわいい鳴き声を、忘れることはないだろう。

私はやがてまたニューヨークへ戻っていくが、ここで見つけた「ふと」というささやかな衝動をいつまでも大切にしたいと思っている。

けれどいつかまた忙しい日々の中で「ふと」を忘れそうになったなら、迷わずここに戻ってこよう、疲れた心が故郷を求めるように。

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